行く先々で推しさんよかったね、と声を掛けていただく恐縮な数日間を送っておりました。
いえーい生きてる・・・って感じです。
やっと少しずつ入院療養中に放送されていたものたちを消化できるようになりました。絶賛私がリハビリ中だよ。
正直まだ、推しさんが「復帰」したという認識も、実感もありません。あくまで「退院」が発表されただけだと思ってる。
きっと推しさんの声を聞くまで、復帰したんだなっていう実感は沸かないんだと思う。
推しさんの退院の報せを聞いた時、一番に感じたのは嬉しいとかそういう感情ではなくて。
もちろんよかったっていう安心はあったけれど、例えるならたぶん少し息がしやすくなったとか、空が青く見えるようになったとか、そういうこと。
私にとって推しさんは神様ではないけれど、毎日に色をつけてくれる存在なんだなと改めて考えたりします。
推しさんの退院が発表された日、私は知人から「じゃあ今すごいテンション高いでしょ」と笑われました。この何気ない一言が、今もまだモヤついて離れないんですよね。
推しさんが退院したことを、テンション高く手放しに喜ぶことが正であり善なのか。安堵と歓喜は別物で、それを一緒くたに出来るほど器用でも馬鹿でもない。
休業する前と同じ状態の推しさんが戻ってくるわけじゃない。ゲームみたいに回復機能を使って元どおりって訳じゃない。それなのに無邪気にはしゃげって言う方が、私には酷だ。
一応断っておくと、その知人とは直接顔を突き合わせていたし、私の体調は絶不調だったし、「推しさん退院したの〜〜!!嬉しい!幸せ!ハッピー!!」と私から言ったわけでもありません。
それでも勝手に感情を切り取って、ステレオタイプな型に嵌め込んで、それを揶揄されたことがあまりにも不愉快だったんだと思います。
そもそも無邪気に!!!はしゃげるようなら!!!私は色々こねくり回した結果オタクをやめたりしていない!!!!!!瞬間湯沸かし器だから発言には気をつけてほしいほんと!!!!推しさんが休業したときに「そこまで凹むようなこと?笑」って笑ってきた職場の人のことも一生忘れませんよ私は!!!!!
何が言いたいかというと、自分の推しさんに何かがあったとき何を想うか、何を考えるかなんて自由なんだよなってことです。
喜べるなら喜べばいいし、不安だと思うなら不安なんだろうし、自分の抱えた感情は全部自分だけのものなんだから、何を想おうとそれを他人からとやかく言われる筋合いなんてない。
その感情がマイナスのものだったときに、わざと推しさんに見える形で発信してしまうのかそうじゃないのかという分別は、きっと必要でしょう。それは社会生活を送る上での気遣いと同義だと思います。
逆にプラスの感情はどんどん発信していけばいいじゃない、と思います。こんな薄暗い壁打ちブログをしているような私ですけどね!!
推しさんの退院が発表される10日くらい前からですかね、少しずつ推しさんの歌っている曲を聴くようになって、推しさんの声が好きだなってシンプルに思いました。
大事なのはそういう単純明解なことだけなんだよなって、推しさんを好きでいることを手放しそうになるたびに思い直します。
推しさんの復帰、たのしみですね。
また推しさんの創る表現の世界を、きらきらした声とお芝居で見せてもらえたらうれしい。
いつだって想像の先を行く人だからきっと大丈夫だろうなって、そんな身勝手な信頼を私は抱えていようと思います。
半分以上私の愚痴になってしまいましたが、このエントリーをお題箱のお返事に代えさせていただきます(拝)